「しるしと不思議」王鋭伝道師–2021.09.26


「しるしと不思議」
ヨハネの福音書4:43-54;王鋭伝道師

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 「しるし」は、神様によってのみ起こりうることを指す。「不思議」は、日常的に起こることではない、即ち超自然的な現象を指す。聖書には多くのしるしと不思議が描かれているが、これは多くの人々のつまづきとなってきた。伝道する時、無神論者がしるしと不思議に対して懐疑的な態度を取る。「このようなあり得ない話を信じるキリスト者は愚か者」だと言われる。一方、一部の教会では、説教の内容がほとんど「しるしと不思議」に関する証となってしまっている。もし、キリスト者の信仰がしるしと不思議のみで成り立つのであれば、それは浅はかである。では、「しるしと不思議」について、どう理解を深めれば良いのだろうか。

 ヨハネの福音書では、イエス様は地上で7つのしるしを行われた。本日の内容はその3つ目に該当する。イエス様がサマリヤを離れ、ガリラヤへ向かわれた。皮肉なことに、ユダヤ人が避けて通るサマリヤにて大いなるリバイバルが起こった一方、イエス様の生まれ故郷であるガリラヤの人々は彼に対して常に敵対的であった。しかし、45節では、ガリラヤ人はイエスを歓迎したとある。イエス様が行われたしるしと不思議を目の当たりにし、態度が豹変したのである。このようなしるしと不思議のみの上に建てられる信仰に対して、聖書は警告を与えている。ガリラヤの人々は、48節にある通り「しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」のである。

 前述の「見てから信じる」を確認と言うならば、「見ないと信じない」は試みである。実際に多くの人がしるしを求め、神様を試みる。聖書でキリストを最初に試みたのがサタンである。神の子なら石ころをパンに変えて食べなさいというしるしを求めた。そしてイエス様が十字架に掛かる時、ユダヤ人は神の子ならそこから降りてこい、と嘲りながらキリストを試みた。上記に加え「見ても信じない」人も多くいる。ヨハネ12:37では「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」とある。即ち、彼らはイエス様の癒しを経験し、恵みを目の当たりにしたが、イエス様に従おうとはしなかった。

 本当の信仰とは、「見ずに信じる」である。46節にて、カペナウムの役人が約30キロの道を上り、カナにいるイエス様を訪ねた。病気で死にかかっている息子がいるからである。しかし、イエス様は役人と共に行くのではなく、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と伝えた。そして、この役人の反応こそ、信仰と呼ぶに値する。「しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と言われたガリラヤ人とは対照的に、彼はイエス様の言葉に従い帰途についた。神様が信仰の父と言われるアブラハムに対し出て行きなさいと言い、アブラハムが出て行ったのと同様、イエス様がこの役人に対し帰りなさいと言い、彼は帰ったのである。後にこの役人はしもべに出会い、息子が癒されたことを知った。また、会話を通して、イエス様が「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と、息子が実際に直った時刻が同じであることに気づいた。これらのことを通して、役人とその家族もみなイエス様を信じるようになった。しるしと不思議が一家の祝福となったのである。

 しるしと不思議がある理由はヨハネの20:31に記載されている。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。即ち、しるしと不思議を通して、イエスが神であり、救い主であることが証明されるためである。