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私たちは神の作品」 

2007 / 11 / 18            

講師  榊原寛牧師  
聖書箇所  エペソ2:10      
記録  酒井美音子  
 

 今日はエペソ書の中から「私たちは神の作品」であることを学びたいと思います。しかし、私たちは自分の姿を鏡に映しても、どこに神様の作品らしい姿があるでしょうか?私たちはイエス様にどれだけ似ている作品でしょうか?どれだけ価値のある作品でしょうか?私たちのために神様はひとり子イエス様の命をかけたのですから、私たちは莫大な価値があると受け止めていきましょう。

 エペソ2:1-3を見てみましょう。2:2「不従順な子ら」とは神に背いていく生き方、自分が神になっていく生き方です。2:5「罪過の中に死んでいた」私たちは罪の子として生きていたかもしれませんが、神の子の命は私たちの内になかったのです。当然、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(2:3)でした。当然、私たちは神の裁きを受け、のろいを受ける、滅びの子供達でしたが、イエス・キリストが神の滅びや怒りを受け止めて下さいました。イエス様が自分の命を投げ出し、代価を支払って私たちを罪の子から神の子に造りかえて下さいました、エペソ2:4-5、これは私たちに対する神の一方的な的な恵みです。

 私たちを良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたというのです。つまり、再創造です。哲学者のソクラテスは「汝自身を知れ」と言われました。私たちは自己認識の必要を感じます。神に対して、人に対して、自分は如何に罪人であるかの認識は必要です。私たちはキリストの十字架の意義を認識する時に、神のご愛、恵み、赦しを経験し、私たちが罪赦された罪人であることが分かりました。私たちは罪過の中に死んでいた者でしたが、神様はキリスト共に私たちを生かして下さいました。Uコリント5:17「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。

 イザヤ64:8に「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」というみことばがあります。先程、賛美歌の141番を歌いました。「なしたまえながむね すえつくりわが主よ」とは、中国語では主は陶器師であり、私たちは泥と土ですと書かれています。その泥と土が美しい器になるのです。陶器師はまず土作りから始めます。土を洗うと、山の中の葉やごみが出てき、それを取り除きます。もし私たちを洗ってなら、不安、憎しみ、怒りそのような思いが出てくるのではないでしょうか。それから長い間沈め、水を捨て、粘土を作ります。それをたたいて、踏ん付けて、揉んで、手で練られます、いわゆる土殺しをします。土殺しとは陶器師の思う通りなるように土が練られていくことを言います。それと同じように、神様は私たちの思う通りの人生ではなく、神様の思う通りの人生を歩ませたいと思っていらっしゃるのです。

 神様は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えて下さったのです。「良い行い」とは私たちを通して神の栄光が現れること、私たちを通して神がほめたたえられることです。神様は私たちをそのように造られているのです(参考:エペソ1:6、12、14)。

 器は自分で自分を自慢せず、器は決まって造り主をほめたたえています。私たちもそうなのです。私たちを通して神の栄光がほめたたえるためです。私たちは神の作品なのです。

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