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今日の聖書箇所の中に「いつも喜んでいなさい」という言葉がありますが、これは「気が向いたら」ということではなく、「いつも」と勧められています。ノーベル賞作家の大江健三郎氏が書いた小説の中に、重い脳障害を持った息子のことを題材にしたものがありますが、この本の一番最後の言葉は「リジョイス‐rejoice‐」つまり「喜び」という言葉で終わっています。これは決して喜ばしい状況ではなく、辛く、苦しい状況の中にあっても喜びましょう!という意味であると思います。
私たちは「主にあっていつも喜びましょう」と勧められています。新約聖書のピリピ人への手紙は喜びについて書かれていますが、エペソ、ピリピ、コロサイの箇所はパウロが獄中で書かれた書です。とても喜べる状況の中ではなかったのですが、パウロはピリピ人への手紙の中で17回も「喜び」という言葉を繰り返し語っています。今日は聖書の中から「喜び」ということを勧めている箇所を見ていきたいと思います。
ピリピ4:2〜3
パウロはピリピの信徒たちに「主にあって一致してください」と勧めています。その後には「主にあっていつも喜びなさい」と続いています。一致するためには「主にあって喜ぶ」ことが秘訣であると語っています。
イザヤ62:4〜5
この箇所は神様が私たちを喜びの対象としているということが書かれています。私たちは、神様が私たちを喜び、愛しているということを知ることが大切です。これを知らなければ喜ぶことは出来ません。神様にとって、自分も他人も全て喜びの対象なのです。
ピリピ3:1〜2
教会の中にも純粋な信仰ではないものが入ってくる危険性があると書かれています。この様なことから守る秘訣は、教会の中に「喜び」があるということです、と書かれています。私たちは信じて救われるのではなく、律法的な行いをしなければならないという教えが入ってきていると書かれています。しかし、クリスチャンの行いは律法的なものではなく、喜んで行うことが神様の恵みに尽きる生き方であると教えています。
ピリピ2:17〜18
「注ぎの供え物」とは「殉教」を意味しますが、これを悲しむのではなく「一緒に喜んでください」とパウロは語っています。イエス様は「私の為に迫害を受けるものは天国で大いに報いを受ける」(マタイ5:11〜12)と語られました。本来なら喜べないことであっても、喜ぶことが出来る、これがクリスチャンの特権です。
ピリピ1;17〜18
パウロ自身は喜べる状況になくても、キリストが宣べ伝えられることを非常に喜んでいます。私たちは苦しいことがあるとすぐに不平不満を言います。過ってイスラエルの民は不平不満に満ちている中で、神様が下さった1本の木を入れた水を飲み、それまで苦くて飲めなかった水が美味しく変わっているという経験をしました。人間の不平に満ちた心は1本の木、つまりキリストの十字架によって清い心に変えられるということです。私たちが自分の罪を悔い改め、心に十字架を迎え入れることによってそれは喜びに変えられるのです。人間の努力では出来ないことでも神様には出来るのです。 |