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私たちの敬愛する、丁惟柔長老が天に召されました。別れることは本当に辛いです。神様のみことばは、そうした私たちの心を慰めてくれます。丁長老は、私たちのために一番良い模範となってくださいました。一生涯、神様に忠実に仕えました。私たちは、彼女を真似て、その足跡にしたがってこれから生きていかねばなりません。
私たちが将来に直面するものは、絶望ではなく栄光に満ちた宮です。黙示録の22章は、21章と併せて読むべき箇所です。天の宮は、一辺が4000mずつある立方体の城です。黙示録は、いろんなシンボルや比喩を用いて書かれています。立方体はユダヤ人にとって完璧な形であり、この世には無い城です。地上の城が永遠に続くことはありません。しかし聖書では私たちに、天には一つの城があるといっています。永遠に続く城です。その中に神の御座があります。幾千万の天使や、救われたクリスチャンが集まっています。さらにそこには、神の御座から流れるいのちの川があります。永遠に枯れることがなく、その生ける水を飲めば永遠に渇くことがありません。この世の私たちは常に新しいものを探し求め、得られないと虚しさを感じます。しかし、生ける水は私たちの心を潤してくれます。
また、天にはいのちの木があります。創世記に出てきた、食べれば死ぬことがないという実のなる、あのいのちの木です。アダムとエバは、この永遠のいのちの祝福を失いました。しかし、救いがやって来ました。いのちの木が、黙示録で再び現われたのです。私たちは、聖書の最初である創世記と、最後である黙示録の中に、いのちの木を見ることができます。永遠のいのちは、お金で買うものではありません。イエス様からくるものです。イエス様は私たちに永遠のいのちを保証してくださいます。なぜなら、イエス様は死を打ち破って三日目によみがえったからです。いのちの木の存在は、私たちが永遠のいのちを楽しむことができることを表しています。この木には12種類の実がなっています。これは、1年間に12回実を結ぶということです。そしてその葉は、人々を癒します。人間は、いくら注意しても病気になります。体が健康でも、心が不健全だったりすることもあります。しかし天においては、心も体も病気に冒されないのです。
私たちは誰でもいつかこの世を離れます。病気になって初めてその時のための準備するのではなく、毎日準備しなければならないのです。この世にいる私たちは旅人です。この世を去ることは、天の家に帰ることです。天の宮にあっては、もはやのろわれることもありません。のろいの中で、最大のものは死です。もしアダムとエバが神様に背かなければ、人間は永遠のいのちに入ることができたのです。しかしイエス様の十字架の救いは、死ののろいを打ち破ったのです。イエス様は死を通してよみがえり、天の宮へ行きました。そして、永遠にそこに居続けます。死ものろいもありません。宮には神の御座があり、神様が民と共にいるのです。永遠に神様を囲んで、神様に仕え、神様を讃美するのです。そこでは、毎日神様の御顔を仰ぎ見ることができます。今、この世にあってはその姿を目で見ることはできませんが、天の宮においては、神様を見て、礼拝し、神様の愛をめいっぱい受けることができるのです。天の宮は、光に満ちています。なぜなら、神の御座があるからです。そこで私たちは、イエス様と共に王になります。神様の御旨に従って、治め、管理するのです。
今日の箇所から、私たちは、自分が将来行く所を知ることができます。救われたクリスチャンなら必ず帰る天の宮です。私たちが、一番慕っている場所です。この世での私たちは、旅人です。帰るところは、天の家なのです。丁長老はすでにそこに居ます。どうか今日のみことばが、私たちに慰めを与えてくれますように。 |