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教会の責任 

2007 / 05 / 27             

講師  王永信牧師  
聖書箇所  創世記41:37-41   
記録  磯川智子  
 

 教会には二つの責任がある、ということについてお話しします。創世記に出てくるヨセフはアブラハムの子孫、ヤコブの息子です。ヤコブはヨセフを最も愛し、特別扱いしました。言い換えれば、ひいきしていました。これがおもしろくない兄たちは、ヨセフに対して怒り、恨みました。恨んで殺そうとしましたが、結局殺さず、エジプトに売り飛ばしてしまいました。これは家庭の悲劇です。親である私たちは、神様が与えてくださった子供たちを同じように愛さなくてはいけないのです。

 神様はヨセフに恵みを与えました。エジプトに行ったのち、ヨセフは監獄に入れられました。そこで神様は彼に啓示を与え、救いました。この啓示によりヨセフは、誰ひとりとして解くことのできなかったパロ(王)の夢を解き明かしました。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」(創世記41:38)と言ってパロはヨセフに高い地位や、自分の指輪などを与えました。高い地位とは、王に次ぐ地位で、エジプト全土を支配する権力でした。それまで監獄にいた彼が、国で2番目の地位に就いたのです。

 このことは、今日の私たちにどのようなメッセージを与えているでしょうか。罪人であり、永遠の命も無かった私たちが、イエス様の十字架の死によって救われたと信じることで、神様の子供という身分を得たことは、ちょうどこのヨセフのようです。私たちはイエス様を信じることで、大きな恵みを得ることができたのです。では、このことと教会の責任とはどのような関係があるでしょうか。

 ヨセフは、エジプトに大きな影響をもつようになりました。パロの夢の解き明かしで、彼は7年間の豊作と7年間の飢饉について語りました。豊作のあいだエジプトは食糧を蓄えてきたので、飢饉がおとずれた時、世界中の人がエジプトに来て食糧を得ていました。ヨセフの家族もそうした中で、エジプトに食糧を買いに来ました。ヨセフは神に感謝し、家族を自分のもとに喜んで迎え入れました。大きな土地と、住む場所を与えたので、エジプトでのイスラエル人の人口はどんどん増えました。このようにヨセフがした、同胞や自分の家族に対して行う働きが、1つ目の責任です。

 ヨセフがエジプトに連れてこられたことによって、エジプトの人たちもまた、飢饉の被害から守られました。ヨセフが神の言葉を心に留めて7年の豊作のあいだに蓄えた食糧は、まずエジプトの人たちを救ったからです。ヨセフはエジプト人ではなくイスラエル人です。エジプトにおけるヨセフは、寄留者です。ここでヨセフは2つの働きをしたといえます。自分の民族をエジプトに連れてきた一方で、寄留地であるエジプトにも祝福をもたらしたのです。この2つ目の働きは、私たちにどんな関係があるのでしょうか。

 神様が、私たちをどこに置いたかということは、その場所に対して、責任を持つということです。自分たちのことだけ考えていてはいけません。ヨセフはイスラエル人も、エジプト人も両方たすけました。私たちは彼を見習わなくてはなりません。同胞を主に導き、寄留している地の人々も主に導くのです。宣教とは、文化や言語、種族を越えて伝道する働きです。宣教の対象は誰でしょうか。聖書には、それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と書かれています。これが文化を越えた宣教です。神様は大きな恵みを教会に与えています。神様の使命を守らなくてはなりません。すべての地、すべての民族、すべての人が私たちの目標です。

 ですから、教会の中に留まっているだけでは、霊的だとはいえないでしょう。生活と霊的なものが離れてしまっています。聖書を読む、祈る、礼拝する、伝道会をする、宣教する以外のことは社会、文化、政治、娯楽、世俗のことで、教会とは関係ないと言って壁をつくっているのでは、何もしていないことになります。壁の中でクリスチャンとして生活していてはいけません。神様から与えられた責任を忘れてはならないのです。ヨセフにならって、同胞にも、その地の人にも、どちらに対しても責任を持つことが必要なのです。

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