1.来週はペンテコステ(聖霊降臨節)ですが、本日の聖書箇所から聖霊の働きについて考えて見たいと思います。
@26節「御霊も弱い私たちを助けてくださいます」、「弱い私たち」とありますが、このギリシャ語の意味は「病弱な」、「もろい」、「不安や恐れを抱く」、「失望、落胆する」という意味があります。御霊はそんな私たちを助けて下さいます。
イエス様は最後の晩餐の時、「主がこの世を去っても、助け主を遣わす」と約束されました。聖霊はイエス様が私たちのために遣わした助け主です。
A26節、御霊は私たちのためにとりなして下さいます。「どのように祈ったら良いか分からない」とは、私たちの祈りがまとまりのない祈り、自己本位な祈り、自分勝手な我侭な祈り、神様の御心に沿うような祈りができないということかもしれません。しかし、そういう場合でさえも、御霊は私たちのためにとりなして下さるのです。「とりなす」とは双方の間に立ってうまくまとめるという意味です。「言いようもない深いうめき」とは、言葉に表せない切実な感情を込めるという意味です。「うめく」という言葉の意味は、「悶絶」、「苦しくてうんうん唸る」という意味です。私達が苦しみや悲しみの辛い祈りを捧げる時、聖霊様は私たち以上に苦しんで神様に向かって私たちのために祈りを捧げて下さっているのです。
B27節、御霊は神様の御心を探り求めて、御心を充分に知ることのできるお方です。御霊は神様の御心を受け止め、神様の御旨にかない、神様に従うお方です。御霊は寝ずの番をして、昼も夜も私たちのためにとりなして下さっております。
2.イエス様が抱いている聖霊についての思いを考えて見たいと思います。
@ヨハネ14:17、イエス様は最後の晩餐の時、聖霊について真理の御霊と言われました。ですから、御霊は私たちを真理に導いて下さり、必ずキリストご自身を証し、神様の栄光を現して下さいます。聖霊が働くというのは、異言とか癒しの力とか預言とか、目に見える意表を尽くことばかりではありません。私たちの心に罪が示された時、イエス様に悔い改める時、神様の愛に溢れる時、信仰の確信に立つ時、それは私たちに聖霊が働かれたという証拠です。
Aイエス様は聖霊は助け主であると言われました。「助け主」とはギリシャ語では「パラクレートス」という言葉で、「援助者として招かれた者」という意味があります。従って、聖霊はどんな時も私たちと共にいて下さるお方であります。
ですから、このお方によってこそ、私たちの身の回りに起きるすべてのことが益となっていくのです(ローマ8:28)。27節で、「聖徒」とありますが、聖書では私たちクリスチャンを「聖徒(聖い者達)」と呼んでおります。聖徒とは、特別に神の者として選び分かたれた者という意味です。「聖徒」とは、道徳的に、倫理的に優れた者ということではありません。神に愛されている、選ばれているという確信を持っている人達です。また、「聖徒」とは神の御心に従って生きることを最優先にしている人です。ローマ8:28を分かりやすく訳された聖書には「私たちは、神様を愛し、神様のご計画通りに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となることを知っているのです」と訳されています。
そうであるなら、「私の身に起こることはすべて、益となる」ということを信じることができます。「すべて、万事」という言葉の中には、例外はありません。時には辛く、悲しい試練に遭遇する時もあります。しかし、そうような時も、この神様は私を愛し、御霊によって、うめくようなとりなしをしていて下さり、私たちを最善に導いて下さいます。