東京国際基督教会も50周年を迎えました。神様は、50年の間この教会を導いて下さいましたが、この時に、イスラエルの民をどの様に導いたかを思い起こしてみました。神様は、イスラエルの民に葦の海を渡らせ、荒野で40年過ごさせた後にヨルダン川を渡らせ、カナンの地へと導きました。民がヨルダン川を渡る時、「水のない川底から12個の石を取ってそこに並べなさい。そして、1つの記念にしなさい」神様はこの様に言いました。これは、ただの石ですが、この乾いた川底から12個の石を取って民がこの川を渡ったということを覚えることが出来ます。このことは霊的に深い意義があります。神様が民に葦の海を渡らせ、海の反対側の地へと導きました。この時、葦の海は二つに分かれました。ここで民は神様の偉大な奇跡を見た事になります。海を渡る前、民は奴隷という身分でしたが、海の向こうに渡った時、彼らは自由を得ました。しかし、生活は一変したのです。過去の主人はいなくなり、彼らはこれからの生活を神様により頼むしかありませんでした。カナンの地に渡った時も同じように、ヨルダン川を渡る前と後の生活は違います。神様により頼むだけではなく、王となっていただかなければなりません。この12個の石は神様が全能の神であるということを表し、民が12個の石を取って来た時から神様との関係が変わるということも表しています。神様に私たちの王となっていただき、導いていただくということです。そして、後の子孫たちがこの石を見た時、祖先がどの様に神様を礼拝し、敬い、従ってきたかを覚えることが出来ます。この様なしるしを通して2つの重要なことを学ぶことが出来ます。
1.この12個の石を通して神様の栄光はどの様に表されるでしょうか。この石を見る時、神様は導いた方、民は従ったという関係を見ることが出来ます。新約の時代、神様は様々なしるしを通して私たちを導きました。クリスチャンの中で常に用いられるのは十字架です。12個の石は価値のないものですが、神と民の関係を見ることが出来ます。同じ様に、当時十字架というのは死刑を執行するために使われた道具にすぎず、恥ずかしい物でした。しかし、十字架は私たちに神様の栄光を表していることを思い起こさせます。十字架を通して、神の御子であるイエスキリストが死から復活したのです。私たちは罪の中にあり、神様の恵みとは関係のなかった者ですが、イエスキリストの十字架を通して神様との関係を復活することが出来ました。これは12個の石と同じ様です。私たちがイエス様を信じた時、イエス様は私たちの人生の王となって導いて下さいます。霊的な意義というのは十字架本来の意味を超え、私たちを滅びの中から永遠の御国の中へ導いて下さったことを覚えることが出来るのです。同じ様に、神様は様々な方法を用いて私たちを導くことが出来ます。イエス様が捉えられる前日の夜に、過ぎ越しの祭りの時でしたが、種なしパンをとって割き、杯を取って、弟子たちと新しい契約を結ばれました。この特別でもないパンと杯をもって、栄光である主が人となって生まれ、私たちの罪のために十字架に掛かられ、血潮を流されたということを2000年の間思い起こすことが出来ました。教会は、この新しい契約を結ばれた人との群れです。この群れの中にいる人には栄光の神様の御霊が住まわれるのです。
私たちの教会は50周年を祝う時となりました。この意義というのは、12個の石をもって、私たちに教えて下さったのと同じ様に、50年の間、どの様に東京で民を導き証しさせて下さったかを思い起こすことが出来るのです。今では、教会には400名以上の人々が神様を証ししていますが、50年の間に、神様はこの様にたくさんの人々を救って下さり、そこで証しさせて下さっているのです。この50周年というのは、非常に重要なしるしとなるでしょう。
2.12個の石というのは、過去を思い起こすことだけではなく、現在、未来の人々に、どの様に神様を礼拝するかということを思い起こさせてくださいます。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか」(Uコリント7:1)イエス様は私たちの人生を導いてくださいます。私たちは常に主の御前で平安であるか、喜んでいるかということにとらわれがちですが、私たちは神様を礼拝するのです。聖書を読み、祈ることの全ての上に神を礼拝するということがあるのです。神様は12個の石を通して、イスラエルの民にどのように神様を礼拝するのかということを教えたのです。教会の発展は、ここに集う人が神様と正しい関係を持たなければなりません。私たちも生ける12個の石となり、人々の模範となるのです。御ことばを理解し、御ことばに従うとき、私たちは神様と正しい関係を持つことができます。50周年というのは、歴史だけではなく新しい始まりです。