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| 「慰めに満ちた神により、良いわざとことばに進もう」 |
2006 / 11 / 26 |
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| 講師 | ︰ | 榊原寛牧師 | |
| 聖書箇所 | ︰ | 第二テサロニケ2:16-17 | |
| 記録 | ︰ | 松澤政彦 | |
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人類は、エデンの園で堕落してから心の中に闇があります。これを、原罪といいますが、人はこの原罪の中にあって、完全になることは出来ません。イエスキリストは、完全な神であり、完全な人でした。ですから、試みに会わなければならないのです。私たちの先祖であるアダムとイブも試みに会いましたが失敗しました。しかし、イエス様は、この試みに勝たれたのです。ですから、全人類の救い主となることができました。主の救いに与らなければ誰一人試みに打勝つことは出来ないのです。私たちの目はいつもイエス様に向けていなければならないのです。それでこそ試みに打勝つことが出来ます。今日は人類が会う試みについて考えてみたいと思います。 1. 私たちは、物質の縛りから抜け出すということです。イエス様は荒野で断食をした後、空腹を覚えました。悪魔はそれを利用して「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」(マタイ4:3)と言ったのです。イエス様は神様ですから、その石をパンに変えることも出来ました。しかし、神様の御こころに従い、自分の為にその奇跡を行わず、御ことばを用いて悪魔に立ち向かい、試みに打勝ちました。イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)と言われました。私たち人間は、衣食が満たされれば満足するものですが、それだけでは足りません。神様の御ことばが私たちを満たすのです。それは、御ことばが霊であり、命であるからです。物質に縛られてはいけません。神様の御ことばを求めていくことにより私たちの内側が満たされるのです。 2. 自我の迷いから抜け出すということです。最も大きな敵というのは自分自身です。人はこの自我の試みに簡単に会ってしまいます。悪魔はイエス様を神殿の頂に立たせました。その神殿には多くのユダヤ人が集っていました。もし、ナザレ人であるイエス様がその神殿の頂から飛び降りたとしたらどうなっていたでしょうか?奇跡的な技を行って、多くの人を引き付けたことでしょう。しかし、イエス様はそのような英雄的な方法を用いたりはしませんでした。神様の御こころに従い、十字架の愛をもって人々を寄せつけました。奇跡とは、神様の救いの印です。自分自身を誇り、英雄的になることではありません。英雄的というのは自我がそこにあり、自我をそこで高ぶらせることです。教会の正しい目的というのは、十字架と主を高く掲げるということです。 3. 私たちは、権力の誘惑の中から抜け出すということです。悪魔はこの世の王です。悪魔はイエス様に交換条件を出しました。「もし私を拝むのであれば、この世の栄華をすべてあなたに差し上げましょう。」しかし、イエス様は試みに勝たれておりました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」(マタイ4:10)権利の誘惑とは、人が最もよく求め、陥りやすいものです。しかし、イエス様は、互いに仕え合いなさい、と教えています。人がこの世の栄華や地位を求めるのであれば、神様の御ことばを求めることは出来ないでしょう。この世の成功とはこの世を基準とした成功で、神様によるものではありません。私たちは神様を求めるべきで、この世の成功を求めるべきではありません。神様の元に帰り、神様を中心とした生活を送るべきであり、虚しい成功の為に生きる必要もありません。そうすれば、私たちの人生観や価値観が変わり、内側の満足や喜び、豊かなものを得ることが出来ます。 イエス様は2000年前に試みに会われました。私たちも試みに会っていますが、その試みに打勝つには御ことばを読むことです。それにより、力を得、喜びを得られます。
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