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| 「四文字の人生」 |
2006 / 10 / 08 |
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| 講師 | ︰ | 姜寶陞牧師 | |
| 聖書箇所 | ︰ | 創世記50:24-26 | |
| 記録 | ︰ | 榎戸清美 | |
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ヨセフの人生とは、4つのことばで表されると言われます。売られる、捕らわれる、遣わされる、とどまるです。これはヨセフの人生です。私たちに何の関わりがあるのでしょうか。聖書を読むとき、背後にある意味を読むなら、霊的な教えと言うのはそれを見ることによって、今の私たちの人生と繋げて見ることが出来るのです。これがメッセージです。わたし達に与えられているメッセージとは何でしょうか。 1. “売られる”とは、苦難の人生を表しています。ヨセフは無実の罪を着せられ、奴隷としてエジプトに売られてしまいました。どうしてでしょうか。何の罪も犯していません。それは、兄たちがヨセフに嫉妬したからです。ある日ヨセフは夢をみました。「太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝んでいる」、ヨセフは何の疑いもなく、兄たちに話しました。元々ヨセフは父に可愛がられていましたが、兄達はこれを聞いて、自分たちも両親もヨセフを拝まなければならないのかと思い、ますます嫉妬しました。なので、ヨセフの売られたということは、苦難の人生を表しています。私たちの人生も自分の思い通りにいかないことがあります。自分が罪を犯して苦しみを受けるのならば、それはもっともなのですが、何も悪いことをしていないのに多くの苦しみがあります。何故でしょうか。私たち神様を信じるものは、苦難の背後には、神様の永遠の御計画と導きがあることを知るのです。もし罪を犯した結果でないのなら、神様により頼んで、しかりとたつのです。ヨセフの人生からわかることは、苦難と人生は切っても切り離せないということです。しかしクリスチャンは、苦難の背後に祝福があることを知らなくてはいけません。イエス様もこのように言われます。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)なぜならば、この世はサタンに支配されているからです。主を信じたからと言って、苦難から逃れられると思ってはいけません。しかし、神を敬い畏れる人には、苦難の中に於いても祝福があるのです。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」(創世記39:2)主がともにいてくださるので、打ちのめされることはありません。 2.“捕らわれる”人生とは、義のために苦しみを受ける人生です。悪いことをしていません。創世記39章に書かれていますが、主人の妻が度々ヨセフを誘惑します。しかし、ヨセフは神を敬い畏れる人です。ヨセフは信仰のために監獄に入れられました。ヨセフは主人の妻の誘惑を満たすことも出来ましたが、それをしませんでした。クリスチャンは、社会的な迫害、家族からの迫害、宗教的な迫害を受けることがあります。これは、義のために苦しみを受けると言えます。イエス様は8つの幸いの中でこのように言われています。「義のために迫害されているものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:10)主は信仰に立っている全ての人に希望を与えることが出来ます。十字架の教えとは、救い、めぐみのしるしだけではなく、信仰のために苦しみを受け、代償を払う人生の意味もあるのです。ヨセフはそれを成し遂げました。 3.“遣わされる”とは、神様に管理される人生を表しています。表面的に見れば売られたのですが、霊的な角度から見れば、神様が赦さないのであれば、彼は売られることはなかったでしょう。最も高い主権とは神様にあるのです。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:5)それは、彼らの命を守るためです。2つの重要な文字が記されています。ヨセフはこの“売られた”という言葉を、“遣わされた”という言葉に変えられました。もし、霊的な角度から見るのであれば、神様が遣わせたのです。そうすれば、神様の永遠の御計画があり、今はわからないかもしれませんが、将来必ず知ることが出来るのです。ヨセフは兄弟の前で報復しないで慰めました。霊的な最も高いところから見てください。“売られた”は人の見方です。それが携えてくるものは、自己憐憫や恨み、辛みです。“遣わされた”は神様の見方です。そこからもたらされるものは、従順、平静、喜びです。 4.“とどまる”とは、ヨセフはエジプトで人生の終わりを迎えました。これはどのような人生を表しているのでしょうか。それは信仰と希望の生活です。創世記の最後の言葉は「棺」です。黙示録の最後のことばは「主よ、来てください」です。創世記の最後が棺と言うのはあまりにも絶望的すぎるのでは、と、思われますが、「エジプトで」と、書かれているのは、信仰と望みを記しています。これはヨセフが、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた神様の御契約を知っていたからです(創世記17:6〜8)。ヨセフにはこのような信仰と希望がありました。ヨセフはこの契約が成就されるのを待っていたのです。430年後に、モーセが200万人の人々をエジプトから導き出した時のことは、ヨセフの未来のことです。ヨセフは、子孫たちがカナンの地で国を建てるのを見たかったのです。また、最も重要なのは、人類の救い主であるメシヤがそこから出ることです。“とどまる”というのは、絶望ではなく、希望です。信仰を表しています。神様の御契約が430年後に成就されました。ですからわたしたちは、暫定的なことで苦しみ、絶望してはいけません。私たちの短い人生を、永遠の神と繋げてみましょう。そこには、希望と力があります。“とどまる”ということは、潜在的な能力と希望を表します。ヨセフと同じように神様を畏れ敬う心を持つこと、それは、人生には多くの苦しみや起伏がありますが、永遠に主がともにいて下さるということを信じることなのです。そうすれば、希望を持て、安心出来ます。そこには神様の永遠の御計画があるからです。私たちの心は主を中心にしなければなりません。そうすれば、人生は開かれ、自由になり、力を得ます。信仰と希望を持つことが出来ます。この4つのことばは、ヨセフの人生を表しているとともに、私たちの人生をも表していると言えます。
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