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群衆の支持を失った伝道者

2006 / 09 / 24             

講師  姜寶陞牧師  
聖書箇所  ヨハネ3:22-30                          
記録  酒井美音子  
 

 今日はバプテスマのヨハネの奉仕の態度について考えて見たいと思います。イザヤ40:3、バプテスマのヨハネはイエス様の伝道の先導者であることが預言されておりました。彼は脇役的人物であり、自分の役割をよく知っており、神に捧げる生活をしておりました。私たちクリスチャンは救われた後、努力して神様に奉仕する生活を学ばなければなりません。バプテスマのヨハネは、私たちの模範であります。彼はどのような模範を示したのか、今日の聖書箇所から考えてみましょう。

1.自分の役割をはっきりと知っていた。
 あるべき基準を出過ぎることはしませんでした。天使が堕落した原因は、神様と御座を争い、もともとの自分の役割を出過ぎてしまったからです。26節、彼の弟子たちは「あなたが証言したあの方・・・」と言っており、イエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証ししていたことが分かります。ですから、彼はイエス様の神性を認め、イエス様を助ける役割があることを知っておりました。彼は自分の役割と自分の地位を弁えておりました。
 人間は堕落した後、邪悪な心を持ち、他の人の地位を奪い取ろうとします。ヨハネにはそのような野心はなかったのでしょうか。彼は立派な伝道者でしたが、荒野に住み、野蜜やいなごを食べ、らくだの毛の着物を着ておりました。彼はこの世的の物を欲しがりませんでした。ヨルダン川に多くの人たちが来て、バプテスマのヨハネからバプテスマ受けました。イエス様もバプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。ですから、自分が「キリスト」であるといっても良かったのですが、彼は謙遜にイエス様を「神の小羊」と呼びました。これは私たちが学ばなければならない態度であります。

2.霊的な目線ですべてのことを見る。
 私達が奉仕する時、人の目線で見た時に、非常に耐えられないことがあります。この世の角度から見るのであれば、嫉妬に溢れるでしょう。しかし、そのようなものをすべて越え、霊的な目線で見れば、喜びに溢れ、自由であります。ある人々はどうして奉仕が続かず、どうして、多くの人が苦しみながら奉仕を続けるのでしょうか?なぜなら、そのような人の心の中は平安がないからです。それは良心からきておらず、嫉妬に溢れているからです。
 26節、ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と言いました。イエス様がヨルダン川に出現してから、イエス様の方がヨハネよりも有名になり、多くの人が去っていきました。ですから、ヨハネは群衆の支持を失った伝道者と呼ばれました。表面的に見れば、彼の働きは失敗したように見えますが、霊的な目から見れば、成功した伝道者と言えます。なぜなら、自分の役割を成し遂げ、イエス様に栄光を帰すことを望んでいました。ですから、マタイ11:11、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」と賞賛されております。彼はこの世の角度からではなく、霊的な角度から物事を判断しておりました。彼は神様の御心に従いました。

3.敬虔で神様に喜ばれる生活。神様に従順であり、神様に栄光を帰す生活です。
 ヨハネは自分から人が去っていく逆境の中で、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)とすばらしい告白をしました。私たちは神様に仕える時、自分が天下を取るためではなく、自分の利益のためにするのではなく、十字架を中心にしなければなりません。十字架とは、「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ということです。十字架とは自分を捨てることで、自我を捨てるということです。そうすれば、私たちの奉仕が続けられるのです。もし、自分の利益だけ求めるならば、十字架を負うことはできません。
 多くの人々はイエス様の所に来ましたが、ヨハネはつまずきませんでした。ですから、私たちの奉仕は人の賞賛を集めるためではなく、主のためにしなければなりません。人の賞賛は常に変化しますが、神様からの賞賛は永遠の価値があります。

「結論」@十字架の道を歩むために、私たちは神様に喜ばれなければなりません。A人の賞賛を求めず、神様の賞賛を受けなければなりません。B心の中が喜びで満たされていました。ヨハネ3:29「花嫁を迎えるのは花婿です・・・花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます」。

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