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キリストの愛に取り囲まれる人生

2006 / 07 / 09             

講師  榊原寛牧師  
聖書箇所  Uコリント5:13-15  
記録  榎戸清美  
 

 今日のメッセージは、パウロの言葉であります「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」です。生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。つまり、キリストが私たちの為に死に、私たちの為によみがえってくださったのです。ですから、私たちは、キリストの為に生き、キリストの為に死ぬのです。それが、人生の明確な使命と目的です。私たちクリスチャンが、自分が何のために生き、何のために死ぬのか、これを持っているべきです。お金や地位の為に生きるのは貧しい生き方ではありませんか。これらのものはすべて、この世においていかなければならないのです。何をするにもすべて、キリストの為という人生を貫くことが出来たら、それは栄光に輝いた人生です。今、病気で苦しんでいる人生があるなら、それは主のため、幸せな人生を送っているなら、それも主のため、パウロは、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)と、言われました。

 昨年都内で、少年が両親を殺して家を爆発させるという事件が起きました。両親が仕事で忙しかったために、子供のころから家族での楽しい想い出もなく、両親にも成績のことで叱られ、この生活から開放されたいという思いで、この事件を起こしました。事件を起こした直後も、少年は反省することはありませんでしたが、捜査の中で、両親が少年のために貯金していた通帳を発見し、少年は事件のことを悔やみ、その時から毎日空に向かって両親に呼びかけているそうです。その後、少年のおじ夫婦が少年を家族として引き取りたいと言って来ました。毎日少しずつ進もうと言う言葉も送りました。少年はおじの言葉に励まされ、一日一日を送っているそうです。

 真実の愛に触れるとき、人は変わります。パウロは、神様がキリストによって彼に表された命がけの愛を経験したのです。パウロはイスラエル民族のエリートでした。正しさについては、非難されるところのないほどに道徳的にも優れた人でした。パウロは自分でこう言います。「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3:6)。パウロは、キリストの弟子であるステパノが石打ちの刑によって死んだことを機に、教会を荒らし、家々に入って男も女も引きずり出し、牢に投げ入れました。さらに、エルサレムにとどまらず、ダマスコにいるクリスチャンにも殺害の意を向けて出かけていきました。しかし、ダマスコの途上で、パウロはキリストに出会いました。「なぜ私を迫害するのですか?」(使徒9:4)。キリストの言葉にパウロは、本当にキリストが本物であることを経験したのです。クリスチャンを傷つけ、教会を傷つけることはキリストを傷つけることだと言われました。良いことについても悪いことについても、この小さなものにしたことは私にしたことです。あなたが友に親切にしたことは、実はキリストにしたこと、あなたが友に意地悪をしたことは、キリストに意地悪したことなのです。パウロは回心し、キリストにささげる人生が始まりました。「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」パウロはこのように言いました。私たちはキリストの為に、キリストを信じるだけではなく、キリストの苦しみをもいただいているのです。

 私自身も、13歳から17歳までの5年間はうつ病に苦しみました。なぜ生きているのか、なぜ生まれてきたのか、毎日死ぬことばかり考えていました。そんな時、家の隣に教会が引っ越してきて、キリストに出会ったのです。キリストは、私たちの罪の為に十字架に掛かって死に、よみがえられました。神様は、イエス・キリストの命をかけて私たちを罪から救い出し、愛してくださったのです。この時から私もイエス・キリストに捧げる人生が始まりました。これまでの人生で、楽しいことも苦しいこともたくさんありましたが、私はキリストの為に生きているのです。

 私たちは、どんな人生であっても、キリストの為に生きる人生なのです。なぜならば、キリストは私たちのために死に、よみがえられたのです。キリストの為に生きていくことが使命であり、祈りであります。

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