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今日のテーマ「葦の海の果て」とは、人生の絶望の淵に直面している様を意味しております。そのような状態に直面した時に、どのように主に拠り頼んで導きを仰ぎ、どのように出口を見つけたらよいのでしょうか?
1.苦境の中の人の反応
モーセとイスラエルの民が葦の海の果てに直面した時に、モーセとイスラエルの民は非常に対照的な態度を示しました。苦境に直面した時に、イスラエルの民は非常に恐れ、恨み言を言いました。彼らの前方には波が逆巻く葦の海があり、彼らの後方には砂埃をあげて迫ってくるエジプト軍がいました。11節で彼らはモーセに「・・・私たちを荒野で死なせるのですか?」と言い、彼を責め立てました。イスラエルの民は本当に烏合の衆でした。しかし、モーセは神を仰ぎ見み、信仰と従順を示しました。同じ逆境の中で、それぞれの反応は全く違っておりました。出3章、神はモーセに柴の中の炎の中から、「イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と啓示を与えられ、彼は神のみことばを持っておりました。ですから、彼は葦の海の絶望に直面しても、彼は慌てることがありませんでした。これは信仰のなせる業です。信仰は環境に左右されず、信仰は環境をも超越します。信仰は結果的に従順をもたらします。16節で、モーセは神のみ言葉に従い、杖を海に向かって差し伸ばした時に、海は二つに分かれました。
2.神様は私たちになぜ困難を与えることをお許しになるのでしょうか?
私たちが絶望に直面する、その目的は何でしょうか?それは私たちを訓練するためです。@神様の大いなる力を現す。A主の満ち溢れるものを私たちが経験することです。私たちは困難の中で神様の大いなる力を経験するのです。私たちはすべてが順調な時に神様により頼むことを忘れます。17節で、神様は「わたしはエジプト人の心を頑なにする」と言いました。そして、神は神に背くエジプト軍を海底に葬り去りました。神は弱くて恐れおののいているイスラエルの民に神様の大いなる力を現しました。これは神様が私たちに困難や絶望を与える目的です。困難や絶望を通してのみ、私たちは神様の大いなる力を体験できるのです。逆境の中で私たちは神様の栄光を表すことができ、主を知ることができるのです。
18節、「エジプトはわたしが主であることを知るのだ」とあります。「主」とは中国語ではエホバと書かれており、6800回以上旧約聖書の中で使われております。毎回このことばが使われる時は、契約を結ぶことに関係する箇所です。ですから、「主」とは契約を立てる主であるといえます。モーセは主が契約を立てたという事実を経験することができました。モーセは葦の海の奇蹟を見て、更に主を知ることができました。私たちは苦難の中で、神がまことの神であることを知ることができます。ですから、苦しみは私たちの祝福でもあるのです。
3.神はいつでも東風を吹かせることができます。
21節、東風とは強風の代名詞で、超自然的な風です。神様はいつでも東風を吹かせることができます。なぜなら、神様は自然界をも支配しております。私たちが絶望に直面している時に、祈りによって、信仰によって、従順によって、神様は私たちのために東風を起して下さり、問題を解決して下さいます。それは、私たちの神様に対する信仰がどのようなものであるかによるのです。
モーセは葦の海の果てまで来ましたが、神が共にいて下さり、困難に打ち勝つことができました。私たちの人生の中で、絶望の淵に直面することがありますが、私たちもモーセのように信仰を持って、困難に打ち勝つことができますように。
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