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| 「シャローム」 |
2006 / 05 / 14 |
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| 講師 | ︰ | 村上宣道牧師 | |
| 聖書箇所 | ︰ | ヨハネ14:25-31 | |
| 記録 | ︰ | 榎戸清美 | |
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ユダヤ人の間で使われている「シャローム」という言葉には「平安があなた方にあるように」という意味で、1日中いつでも使われています。アラビア語、インドネシア語、ハングル語の中にも日常の挨拶の中で「平安」の意味が入っている言葉が使われています。世界中で「平安、平和があるように」という願いを込めての挨拶が飛び交っている中、実際は様々な争いごとが起こっていて、必ずしも平安ではない世の中であります。しかし、私たちは、常に平安を願っているからこそ、その言葉を語るのではないでしょうか。 イエス様も、十字架に掛かって後、復活された夜に「シャローム」と語られましたが、イエス様は単なる挨拶ではなく、本当に、私たちの中に平安があるよう、願いを込めて語って下さいました。この「シャローム」と言う言葉には単に「平安」という意味だけではなく、もっと深い意味があります。つまり、人生を真に生きるに値するもの、人間が求めているいちばん良いものを総合していわれたのがこの「シャローム」です。イエス様はこの世を去る時、形のあるものは何一つ残していかれませんでした。イエス様は十字架に掛かる直前に「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と言われました。イエス様が残していかれたものは、この世が決して与えることの出来ない平安です。学歴やお金や身分や財産で平安が与えられるでしょうか? イエス様が残していかれた平安の根拠が聖書の中に書かれています。ヨハネ14;31にあるように、イエス様は父が命じられたとおりに行っているという確信のもとにある平安を持っており、また、それを私たちに与えて下さいました。自分の生き方の中に確信があることが平安の根拠であります。平安は確信のもとにあります。私たちがどんなに良い環境の中にいて、良い生活をしていても、自分の今いる場所や進む道がわからなければ心は不安でいっぱいになります。しかし、わたしたちが、神様が与えられた道であると確信を持っているならば、そこには平安があります。イエス様は、十字架を前にしていても、それは、神様が与えられた道であると確信を持っていたので、平安がありました。 また、イエス様は、「サタンが今近づいてきているけれども、わたしには指1本させない」と言われました。人間の心の中に平安がないのは、サタンに指を刺されるような後ろめたい心を持っているからです。私たちは過去の隠している罪やあやまちを解決しない限り平安はありません。罪を告白してこそ平安があるのです。イエス様の十字架はどんな人の罪でも赦して下さいます。イエス様の十字架以外に人間の罪を赦されるものはありません。イエス様は「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19、26)と言われたのは、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架に掛かって下さったことを踏まえて言われました。イエス・キリストの十字架なしに人間の心に平安はありません。イエス様の十字架と復活を信じてこそ、私たちの心に平安があります。それは、まことの平安であり、永遠に約束された平安です。
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