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| 「人生の知恵」 |
2006 / 04 / 09 |
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| 講師 | ︰ | 饒孝楫牧師 | |
| 聖書箇所 | ︰ | 詩篇90:1-7 | |
| 記録 | ︰ | 榎戸清美 | |
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この祈りはモーセの祈りでありますが、私たちにとっては現代的な知恵が書かれています。モーセは人生に対してはひとつの洞察力がありました。この祈りは神様に対する祈りであり、私たちに対する影響もとても大きいのです。 詩篇90編1〜6節は宣告の祈りであり、偉大なる事実を宣告をしました。モーセは、神様は私たちの人生の中心であると言いました。この神は私たちと近しい関係にあり、世々に渡って私たちの住まいで、安定したもといであると言いました。私たちには住む場所が必要なのです。私たちは神様の中に住むことが出来ます。モーセは、神様が私たちの住まいになってくれた時には安定出来ます、と、言われました。また、人生の大きな望みとは神様を知ることであり、神様と素晴らしい関係を築くことである、と、言われました。神様は時が始まる前からおられ、今もおられます。神様は創造主であり、全能の主であります。人類の命は神様の御手の中にあります。主権は神様にあります。神様は人間の境を定め、誰もこれを越えることができません。この生と死の間は人生です。人生は思い通りにはなりません。死ぬことも生きることも自分で決めることは出来ません。人生は短く、虚しく、無力なものです。人間は神様と比べてなんと短くて小さなことでしょう。神様から見ると時間は長く、永遠ですが、私たちの人生は神様から見ると眠りにおちるようなものです。人生は夢のごとく過ぎ去っていきます。繰り返すことは出来ません。蛇口をひねれば水は出ますが昨日と同じ水ではありません。新しい水が流れてきます。人は草のように枯れていきます。誰が枯れることを止めることが出来るでしょうか?もし、内なる主がいなければ、生命がなかったら、喜びがなかったら、永遠を通して人生を見つめなかったら、人の麗しさは草花のようです。聖書によると、血肉でつくられたものは皆草のようです。草は枯れて花は散ります。御ことばのみが永遠です。御ことばが私たちの中になくてどの様に生きていけましょう。 7〜10節は警告の祈りです。神様の代わりに人間に対して警告します。人間の罪に対する考え方は相対的なものです。人と人とを比べて言います。聖書の中では人間は神様と比べなければならない、と、言われます。聖書の中の罪の教えは、人間は神様に対して罪を犯しました、と、言われます。私たちは人に対して罪を犯していないかもしれません。まじめで正しい人生を歩んで来たかもしれません。人に対して罪を犯していないかもしれません。しかし、人間は神様に対して罪を犯しました。罪の行いではなく、罪の本質です。絶対的な神様に直面しているならば、私たちは自分の中にある暗闇と悪に気付きます。モーセは言いました。創造主である神様に直面する時、道徳に於いては勇気を持たなければいけません。私たちは人生から、自分自身から、道徳的な責任から逃れてはいけません。言い換えれば、神様から逃れてはいけません。私たちは神様から顔を隠すことは出来ません。ある人は、生きている意味がわからず、この世を自ら去っていきます。人生から逃れようとします。神様の御前に来れば人が何故生きているのかわかります。神様の御前で、自分自身に向き合えば、自分自身の罪がわかります。その罪を悔い改めなければなりません。人生は長いかもしれません、或いはそれほど長くないかもしれません。しかし神様を信じる機会は尊いものです。いつでもいいというものではありません。人生は予測出来ません。11節はひとつの結論であります。神様が私たちの主権を握っています。そのことを誰が知っているでしょうか。12〜17節には7つの祈りがあります。
1.神様の教えを祈りました。12節「自分の日を正しく数える」の数えるとは、人生を、知恵を持って永遠を通して自分を見つめることです。人生は内容の問題で、長さの問題ではありません。
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