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| 「霊的な天秤」 |
2006 / 03 / 05 |
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| 講師 | ︰ | 李宏裕牧師 | |
| 聖書箇所 | ︰ | Tテサロニケ1:4-8 | |
| 記録 | ︰ | 酒井美音子 | |
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パウロがこの手紙を書いた時に、教会はある状況に瀕しておりました。キリスト教の神学において一つの問題がありました。それは神の選びについてです。パウロはその人が神に選ばれているかどうかどのように見分けるのでしょうか?Tテサロニケ1:5、「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」。パウロは教会の兄弟姉妹が信仰を伝えたのは、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信を持っていたからだということを知っておりました。パウロが人の霊的な命を見る時に、彼はちょうど天秤ように、二つの角度から見ます。一つは、福音のことばで、もう一方は力と聖霊と強い確信です。 福音はことばによって、私たちに伝えられました。パウロは人から福音を伝えられたのではなく、主イエスが自ら姿を現し、人が理解できる言葉で彼に福音を伝えました。福音はこのようにことばを通して伝えられます。しかし、彼は聖霊を通し、自分の身を通して、彼は多くの御業を経験しました。こうして、バランスの取れた福音が彼の上に臨みました。そして、彼は多くの人に福音を伝え、多くの人は彼と同じように福音を受け入れました。しかし、歴代のクリスチャンたちが福音を受け入れた時、何かに偏ったところがあり、まるで、天秤がバランスを崩したような状態でした。一部の教会では聖霊だけが強調され、また、一部の教会は聖霊の働きを疎かにし、みことばだけを追求しました。キリスト教の歴史の中でいろいろな宗派や教派があるのは、そこに原因があるからだと思います。二つの両極端があります。かた一方では、ことばだけであり、もうかた一方は、御霊による活動です。今の時代でもこの両極端が存在しております。この両極端に対し、我々がどのように対処すべきかを考えて見たいと思います。私は長い年月の中で多くの教会を訪れました。私は非常に保守的な教会やカリスマの教会にも行きました。私はどちらの教会にも問題があると思いました。その問題について考えて見ましょう。 まず、保守的な教派ですが、ここでは聖書が非常に重んじられております。聖書は神のみことばですから、それを重んじることは非常に重要なことであります。しかし、私たちが聖書を読む時、聖書の他に自分の意見を入れます。それは私たちが聖書を読んでいるからです。神様はそのことばを通して感動与え、感動を受けた時、自分の意思もその中に加えられます。もし、聖霊の働きがあると知らなければ、私たちは聖霊が感動を受けた時、私たちは受け入れようとはしません。聖書が聖霊を通して私たちに語りかけることを知らなければなりません。神は語る神です。このような保守的な教会の現象は、霊的な成長がありません。自分が罪人であることを知っていながら、罪を犯し続けております。聖書の知識と自分の弱さが混合し、毎日自分自身を赦しております。聖書は罪に定める文字となり、ますます、心は頑なになります。聖書に熟知していればいる程、内なる変化がありません。聖霊が私たちに語りかけて下さることを知り、それに従順しなければなりません。 もう一方はカリスマの教会ですが、私はそこで聖霊が自分の中で働くことが必要であることを理解しました。しかし、御霊に満たされることが、我々の聖書に対する知識と古い自我とに混合するといろいろな問題が生じます。私はあるカリスマの教会で問題を見つけました。そこには古い自我、傲慢がありました。また、皆自己表現をしたいと思い、異言を勝手に語り出しました。聖書の中で、異言を教えたことは一つもありません。カリスマ派の人たちは、御霊に満たされれば、異言を話せると考えます。しかし、聖書は私たちに混乱しないように命じております。聖霊の働きは外見的なものではありません。聖霊の働きは、知識においてみことばを理解させ、私たちの心を降伏させ、罪から脱出させて下さいます。私たちが異言を語れるかどうかが重要ではありません。私たちが従順であるかが重要なのです。 聖霊様が私たちをすべての真理の中に導いて下さいます。聖霊から来た感動は、必ず聖書と一致します。聖書は聖霊が人に感動を与え、書かれたものです。我々はみことばがなければなりません。また、我々は力と聖霊と強い確信を持っていなければなりません。強い確信とは勇気を持って、勝手なことを言わさずにみことばを大胆に語るということです。どうぞ、聖霊の感動を打ち消さないで下さい。また、聖書のみことばが私たちの基準となることができますように。
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